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TeRAYAのべっ甲細工について
更新日:2021年6月12日
初めてのブログ投稿は、TeRAYAのべっ甲細工についてご紹介させて頂きます。
▼ 目次
材料えらび
べっ甲細工の素材
べっ甲細工には、ウミガメの一種である「タイマイ」の甲羅を使います。
その多くが南洋のサンゴ礁に生息し、他のウミガメよりも甲羅がやや厚く、美しい色合いで知られています。
1973年のワシントン条約以来、ウミガメの輸出入は禁止され材料が手に入らなくなったことで、べっ甲はより希少なものとなりました。 そのため「べっ甲」はとても高級で手の届かないものというイメージが強くなってきました。
現在のべっ甲細工は、これまでに国内で蓄えてある材料で作られています。
べっこう細工を始めたばかりという人はあまり聞いたことがなく、〇代目という職人さんが多いのはそういう背景があります。 近年では、タイマイの養殖も研究されています。

べっ甲細工の製作工程
べっ甲の製作過程には大きく分けると以下の6つの段階があります。
1デザイン画を描く→2材料選び→3貼り合わせ(色柄を合わせる)→4万力打ち(熱で圧着し平らにする)→5切り回し(デザイン画をべっ甲に貼り、形を切り出していく)→6彫刻→7磨き
従来、それぞれの作業を分業して行うことが多かったので、最初から最後までの仕事を一貫してできる職人はあまり多くはありませんでした。
今は職人の数も少なくなっているので、一人の職人で生み出す作品の価値とその存在は、ますます貴重になっていると言えるでしょう。
べっ甲細工の精巧な彫刻
デザインを描いた紙をべっ甲に貼って削っていく場合とフリーハンドで削る場合もあります。
紙の下描きのデザインにそって削りながら、フリーハンドでデザインを調整しています。
機械で最初に荒堀りする場合もありますが、基本的に手作業で作業しています。

デザインの下描きを書いた紙とべっ甲は木工用ボンドで貼り付けています。 昔はご飯粒をつぶしたものを糊にして使っていました。 べっ甲の石は加熱接着効果があるから、表面をサンドペーパーなどでこすって軽く傷をつけてから熱を加えながら紙を張ると、デザインの下書きもきれいにくっつくんです。
べっ甲は重ねて熱で接着します
べっ甲同士を加熱の力でくっつけます。
そうして厚みを出してから、べっ甲の土台を作り、細工を彫っていきます。
まずはべっ甲の表面をざっとやすりで削って傷をつけます。
そしてさらにサンドペーパーで傷のあらをキレイに整えるんです。
そうやってできた表面の小さなザラザラの傷同士が熱を加えることでかみ合ってくっ付きやすくなるんです。


傷つけた表面をサッと水にくぐらせることで熱伝導を良くしたうえで、加熱された火箸で引っ付けたいもの同士をプレスして、時間を置けばキレイにくっ付きます。
べっ甲を何層にも重ねて厚みを出して、それを継ぎ目が分からないようにキレイに磨き上げて一つのべっ甲細工にしていきます。
火箸を使った加熱は江戸時代から続いています。 当時、火箸は刀鍛冶が作ったそうです。
材料えらび
甲羅の部位によって、0.2~3mmのものや、分厚いものでは7~8mmの厚さのものがあります。
色々な厚みや模様を持ったべっ甲があって、それらを組み合わせて美しい模様を作り出していきます。
べっ甲の特徴を上手に組み合わせ、デザインにあった一枚の土台になるべっ甲板を作るのがべっ甲職人の仕事です。


亀の甲羅の色はお腹と背中で大きく異なります。
それらを上手に組み合わせていけば、美しい色のコントラストが生まれます。
べっ甲細工の歴史
長崎のべっ甲職人 藤田 誠さんの作業場には、大正時代の初代喜山(祖父)のものから、べっ甲細工のデザイン画や資料が数多く保存されています。
当時は孔雀や鳳凰、花のデザインなど、華美なものがよく好まれ、櫛や簪(かんざし)、タバコケースなどもべっ甲細工で作られていたそうです。

大正時代、公務員の月給が30円と言われていた中で、べっ甲の櫛(くし)値段が高いもので38円、安いものでも3円。
当時はべっ甲の材料が獲れなくなると思われていませんでしたが、今と変それでもらず高級品であったことがわかります。
べっ甲と長崎
べっ甲は中国から伝えられた技術だと言われています。
日本でのべっ甲の歴史は飛鳥時代にまで遡りますが、長崎と関係が深くなったのは、鎖国をしていた江戸時代。
唯一の海外との窓口であった長崎には、たくさんのべっ甲の材料が入り、そこで「べっ甲細工」の技術が発展し、日本中へ広がっていきました。
かつて外国人居留地であった長崎市には、今もその面影を残すように、いくつかの「べっ甲店」が立ち並んでいます。
